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    かけはし2021年3月22日号

誇りある自主県政確立の道へ


沖縄報告 3月14日

沖縄県は南部の土砂採掘を止める行政措置を!

沖縄 K・S

3.9

平和市民、宗教者、島ぐるみ南部が対県交渉

 3月9日午後、平和市民連絡会の北上田毅さんが中心となり、宗教者の会の谷大二さん、知花昌一さん、島田善次さんに島ぐるみ南部の糸満、豊見城、南風原、南城、八重瀬、合わせて10人が沖縄県に対し、熊野鉱山をはじめ遺骨混じりの南部の土砂を辺野古埋立に使用しないことを求める要請行動を行った。県側は、松田環境部長をはじめ、自然保護課長、保護援護課長等が出席した。
 北上田さんは事前に提出した質問・要請事項で、@熊野鉱山の開発届に対して、自然公園法第33条2項を適用し禁止を命じること、A戦跡等についても「歴史の風景」と位置づけて第33条第2項の適用を求めている糸満市の意見を尊重すべき、B全国で唯一の戦跡としての性格をもつ国定公園を保護する必要から、国の一般的な基準に拘束されるべきでない、などと求めていた。
 環境部長は「第33条2項の措置命令を出す場合は、きちんと論理的に組み立てなければならない。今後、糸満市の考え、具志堅さんや皆さんのご意見もふまえて検討していきたい。ただ、まだ具体的なところまで行っていないので、県として一生懸命、考えているということしか言えない」と述べた。詳しくはブログ『チョイさんの沖縄日記』。

南部の土砂を埋め立てに使うな!の声の広がり

 ガマフヤーの具志堅さんと同志たちによる県庁前ハンストは、次から次とテントを訪れる人々、多くのカンパと賛同署名、戦争体験者の人々のスピーチ、各種メディアの取材、国会質問で取り上げられ東京で連帯集会が開かれる、など県内外に熱い共感の輪を広げた。「道義に反する計画撤回を」(新報)、「非道な計画に反対する」(タイムス)と南部の土砂採取に反対する立場を打ち出した地元2紙も、関連記事を書き続けている。
「戦没者の血のしみ込んだ遺骨混じりの土砂を辺野古の埋め立てに使うことは戦没者への冒涜である」という主張は今や県民の総意である。3月11日、退任した富川副知事の後任として新たに副知事に就任した照屋義実(オール沖縄会議共同代表も務めた)はインタビューで、「遺骨を含んだ土砂を辺野古の埋め立てに使ってはいけないという声は大きい。新しい規制の枠組みが合法的にできれば、と考えている」と述べた。
沖縄の自民党と公明党も3月10日、沖縄防衛局を訪れ、「南部地区から遺骨混入の土砂の使用は人道上許されない」「県民感情への配慮を求める」要望書を手渡した。沖縄防衛局の田中局長は「遺骨の問題は重要だ。土砂の調達先については検討したい」と答えたという。
日本政府の立場も同様だ。遺骨を埋め立てに使っていいとは決して言えない。しかし、遺骨収集は、「採石業者において適切に行われる」とくり返すのみである。ということは、ある程度の作業と時間をかけたのち遺骨収集は終わったとして土砂搬出に進むというのが政府防衛局のプランだろう。
しかし、この政府防衛局のプランに県民、遺族たちは納得しない。沖縄戦犠牲者の最後の場所、流された血、引き裂かれた肉体、砕けた骨―戦争の記憶は南部のあらゆる場所と結びついている。遺骨収集には終わりがない。

業者の拝金主義を生む元凶は国策強行

 魂魄の塔の横に位置する熊野鉱山の業者は3月4日、琉球新報とのインタビューに答えて、「遺骨が混じっている表土は剥離し最後に埋め戻しに使う。出荷するのは表土の下の琉球石灰岩。遺骨が混じった表土を出荷することはない」と述べ、「埋め戻したあとには果樹と桜を植える」と答えた。これならどうか。やはり、県民、遺族は納得できない。全国で唯一戦跡として国定公園になっている南部の糸満・八重瀬地区の景観は別の物にすり替えられる。県民、遺族が求めているのは、現状のそのままの姿で保全することである。
さらに、ひめゆり学徒隊の最後となった荒崎海岸の海岸線に沿う場所で、大鉱束里(つかざと)鉱山が無届けで大々的な採掘をしていることが明らかになり、沖縄県は業者に中止を指示した。この業者は2019年に沖縄防衛局が実施した辺野古埋め立てに提供可能かどうかを問うアンケートに、可能と答えている。
熊野鉱山といい束里鉱山といい、カネのためなら辺野古埋め立てと戦跡公園の破壊も気にしない。県民全体にとって価値のある自然・歴史を保全するより個人・会社の利益追求を優先する採石業の在り方に根拠を与えているのが政府防衛局である。破綻した辺野古新基地建設のための埋め立てを金に糸目をつけず強行する国策がこうした業者の拝金主義を生んでいるのである。元凶は国だ。

沖縄県は自主的な自治の実行を!

 沖縄県が行政としてどのような判断をするか。当面の焦点はここにある。戦跡公園内であるにもかかわらず無届けで採石を進めてきた熊野鉱山と束里鉱山に対し、事業の永久的な停止にまで踏み込んだ毅然たる行政措置を実施できるか。辺野古埋立に南部の土砂を使うな! 戦跡公園を保全せよ! という県民の大多数の声を背景に、県の行政が中央集権政治にどこまで立ち向かえるのか。1999年の「地方分権の推進を図るための関係法律の整備」以後も継続する中央政府による地方支配に対して、地方自治体として沖縄県が独自の立場で自主的な自治を実行することができるか、ということが問われている。
当然、国の解釈とは異なる県独自の法令解釈が必要となり場合によっては県条例の制定といったことが求められるだろうし、中央の政治家・官僚とのあつれきも強まるだろうし、国や業者による提訴の可能性も考慮しなければならないだろう。しかし、県民の多数が望んでいるのは、そのような誇りある自主県政に違いない。

島ぐるみ八重瀬が県議会に陳情書

 島ぐるみ八重瀬の会は3月9日、沖縄県議会に「辺野古の埋め立てに南部の土砂を使用しないことを求める陳情」を、町内の4カ所の鉱山の写真を資料として添付し、提出した。陳情書は「沖縄防衛局の土砂採取計画はあまりにも無謀で危険」と指摘し、@南部からの土砂採取に反対、A沖縄戦跡国定公園内の土砂採掘を禁止する県条例の制定、B熊野鉱山の採掘の中止、C八重瀬鉱山の点検と実地調査、を求めている。また、南風原島ぐるみも3月4日、@遺骨の眠る土を辺野古に使わせない、A南部の緑地帯での土砂・石材の採取禁止の条例制定、を求める陳情を提出した。
南部の採石場の大部分は糸満市にあるが、八重瀬町内にも@八重瀬岳の公園野球場に隣接する八重瀬鉱山(富盛)、A与座岳の航空自衛隊巨大レーダー下にある大里砕石東風平鉱山(高良)、B40〜50m掘り下げられた第2丸真コーラル鉱山(仲座)など4カ所ある。以下、八重瀬鉱山の部分を紹介する。

島ぐるみ八重瀬の陳情書

 八重瀬岳一帯は沖縄戦で日米両軍の激戦地となり、多数の軍人と民間人が命を失いました。住民の避難壕が沢山あり、中腹には白梅学徒隊が勤務し撤退にあたって重傷兵が青酸カリや銃で死んだ第24師団第一野戦病院壕があります。現在、八重瀬公園として整備され野球場や桜まつりの会場にもなっています。
ところが、公園野球場に隣接して八重瀬鉱山があります。長らく休業していましたが、昨年から再び稼働し始めました。富盛の大獅子の伝説にあるように古来聖地とされて来た八重瀬岳、沖縄戦の戦跡となった八重瀬岳は石灰岩採掘で破壊されてはなりません。小中高生の遊びの場、市民の憩いの場の安全の上でもたいへん憂慮されます。八重瀬鉱山の点検と実地調査を求めます。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む(48)
日本軍の戦時暴力の赤裸々な描写

 中国侵略の日本軍には、県内各地からも多くの青年たちが動員されて命を落とし、また、戦争の実態を目撃し記録した。県内各地の市町村史の戦争体験記録にはそうした証言が数多く掲載されており、日本軍による戦争の姿を赤裸々に描いている。『県内市町村史に掲載された中国での戦争体験記を読む〜沖縄出身兵100人の証言〜』に採録されている証言についてはこれまでほぼ紹介した。前々号、前号に続いて、これから何回かに渡って紹介するのは、採録されていない証言の数々である。今号では、国民学校の教諭をしていて、「師範徴兵」で長崎の相浦海兵団に入団した呉屋良一さんの体験を紹介する。海軍における軍隊内暴力が詳しく描かれている。引用は原文通り、省略は……で示した。

『西原町史』第3巻資料編2
「西原の戦時記録」(1987年発行)

呉屋良一
「辛かった新兵時代」

 昭和十六年、私は師範学校を卒業して、玉城国民学校で教諭をしていた。そこで一か年間勤務した後、昭和十七年の四月に長崎の相浦海兵団に入団した。……私は志願ではなく、徴兵検査を受けてから入団した。自分から志願して入隊するのを志願兵と言った。
師範徴兵として相浦海兵団へ行ったのは、私も含めて沖縄県から12人であった。相浦海兵団は陸軍で言えば、熊本師団とか、宮崎連隊とか、都城連隊などに相当するものであった。海軍では佐世保と相浦海兵団の二か所で九州全体から集められた師範学校卒業生の徴兵者を訓練した。……
三か月の訓練期間が一番苦しい時期であった。今でも、その三か月の水兵訓練期間中の苦しみを夢に見ることがある。人生であんなに苦しかったことはない。……
毎朝6時に起床して、すぐに雪の中を練兵場へ集合し、点呼が行なわれた。練兵場は兵舎の中庭にあった。……私たちは、毎朝そこを駆け足で一周し、その後体操した。それから「甲板掃除」と言って、各部屋の掃除をした。陸上での生活を船上での生活にみたてて、各部屋を掃除する時も「甲板掃除」と言っていた。それが終えてからようやく朝食にありつけた。
朝食を済ませて、8時30分から軍事教練が始まる。「今日は艦砲」というと、大砲の撃ち方の訓練である。練兵場に作った艦船があって、そこで「艦砲」の訓練を行なった。私たち新兵は模擬爆弾を運んで来て、艦砲につめる訓練をした。それを下手くそにやると、模擬爆弾を持ったまま一時間も立たされた。一時間も模擬爆弾を持っていると身体が震えてくるほどであった。模擬爆弾は非常に重かった。もし、その模擬爆弾を落とそうものなら足が押し潰されるし、後方からは上官にバットで打たれた。……
海軍では、水兵、整備兵、機関兵、看護兵などいろいろな分野に分かれていた。私は水兵の訓練を受けた。水兵は主に艦船の艦砲を扱った。その他に手旗信号や航海学などの教育も受けた。……
朝から晩まで、何をやるにも競争であった。他の班と自分の班との競争であった。そして、負けた班は全員バットで打たれた。……そのバットは桜の木で作られ、ニスを塗った大きなバットであった。そのバットには「人は武士、花は桜」と書かれていた。そのバットは房を付けて兵舎内の神棚に安置されていた。そのバットは「日本海軍精神注入打兵棒」と呼ばれていた。大和魂を叩き込むための棒だ、と言っていた。
私たちが入団間もないころ、上官から「これ(棒)があんたたちの友だちだ」と見せられた。最初、この注入打兵棒を見てあまりにも大きいので、まさかこれで人は打たないだろうと思っていた。野球用バットとは比較にならないほど大きかった。これで牛や馬でも殴ったらぶっ倒れるだろうと思った。太さは直径20センチ余もあった。……
しかし、人間は最終的に辛いのは叩かれることよりも、食べ物がなくなることである。少しでもダラダラしていると、教班長が食卓をひっくりかえした。だらしがないと言って、その班全員が座っている食卓をひっくりかえした。訓練は厳しいので、私たちはいつも腹を空かせていた。他の人たちがおいしそうに食事しているのを黙って見ていた。班の一人でも遅かったり、間違ったりしたら班全体の連帯責任にされ、全員が罰された。
三か月間の訓練期間を終えると、長崎の大村海軍飛行場へ配属された。その後、すぐに巡洋艦「羽黒」に配属になった。……
私が乗っていた巡洋艦「羽黒」は、私が下船した後の昭和十九年に横須賀から台湾沖海戦へ参加したが、台湾沖で撃沈された。私たちの一期後輩や一期先輩の方々には戦死者が多い。
一期先輩の方々は、ミッドウェーやソロモン沖海戦で多数亡くなられた。その海戦には私たちは参戦しなかった。私たちが参戦したのはブーゲンビル海戦だけであった。
一期後輩の水兵らは、艦船に乗る期間を満たしていなかったために、まだ艦船に乗り組んでいた。そのために、ほとんどの人たちが台湾沖海戦で戦死した。一期後輩に沖縄出身者が四人いたが、一人しか生き残っていない。


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